聖書 基本 知識
付録
1:聖書の基本教理要約 | 2:聖書学習態度 | 3:キリストの再臨切迫 | 4:神の公義

付録2:聖書学習態度

この聖書基本知識の教理を全部学んでいても、そのメッセージを実際自分自身の事実に感知せない者が居るかも知れないのです。この教理全般に渡る原理を把握せない者が他の人を教えるためにこのような便覧を使用する者たちがおる事実はとても残念なことです。

1世紀には福音の教えに心から反応する人が多かったでした。人たちが福音を"喜んで受け入れ"バプテスマを受けました(使.2:41)。そのメッセージに対する心からの反応がなくてはバプテスマを受けることが出来ないのです。単に彼らの配偶者あるいは父母の強要によってそれを受けいれた者たちは最後までがんばる見込みがないのです。多くの人がただバプテスマを受けるより、一人でも救いを受けるに関心を持っているなら、改宗者が正しい態度でバプテスマを受けるまで念を入れて多くの時間福音を教えなければならないのです。

ベレヤの人たちはパウロの教えを"心から受け入れ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べました"(使.17:11)。この便覧は聖書の教えが学数者の心に正確に反映するように企てた著者の文章です。本当に福音に反応する者は、神の言葉に対してデリケートな心持ちで、自分自身が聖書を調べなければならないのです。この便覧は福音伝道者がいつも持って歩く必用はないのです。ただ関係のある聖書の句節に注意を引かせることが出来るようにしたのです。ローマの信者たちは、彼らがバプテスマを受ける前に、"彼らに伝えた教理の本体に心から服従した"(ロマ.6:17)のでした。

肉の考えでがん強に固執する者たちは福音のメッセージを把握することが出来ないのです。彼らは"信心深い様子をしながらしながらその実を捨てる者となるので、...常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することが出来ないのです"(テモ后.3:1ー7)。私たちは自分が欲しないのは理解することが出来なくなるでしょう。もし私たちが実に義を愛し、私たちの生活を神の管理の下に置かなければ、いくら聖書を学習しても決してその真理の知識を得ることが出来ないでしょう。それは学習はただ学究的働きに過ぎないのです。

聖書学習に幾つかの実例があります。しかしそれらはある意味では学習と言えないのです。これは私たちがかかりやすい病弊です。キリストの時ユダヤ人たちが神の言葉に対して熱心でした。彼らは旧約聖書が神の霊感によって書かれたと信頼していました(ヨハ.5:45; 使.6:11)。彼らは聖書を学習するによって永遠の命を得る望みがあると知っていたので(ヨハ.5:39)、毎週公に学習していました(使.15:21)。これに加えて、彼らの多くが毎週綿密に聖書句節を調べていました。しかし、彼らはキリストを差し示している聖書の意義を把握することが出来なかったでした。イエスは彼らに明らかに告げてました。"あなたがたは、聖書にの中に永遠の命があると思って調べている、...もしあなたがたがモーセを信じたならば、私も信じたであろう。モーセは私について書いたのである。しかし、彼が書いたものを信じないなら、モーセと予言者とに耳を傾けないなら、どうして私の言葉を信じるになろうか"(ヨハ.5:39、46、47; ルカ.16:29ー31)。

私たちはユダヤ人たちの憤りが想像出来るのです。'私たちは毎日聖書を読んでいる'、私たちはそれを信じているのである'。しかし、彼らは心が堅く閉じた態度であったので、理解することが出来ないのでした。彼らは目を持っていましたが、見ることが出来ないでした。彼らのように盲人にならないようにし、すべての霊的発展の段階にこのようなことがないように心を開いで読んで下さい。


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