聖書 基本 知識
学習 10:キリストに預るバプテスマ
バプテスマの重要性 | バプテスマの形式 | バプテスマの意義 | バプテスマと救い | 間違った解釈(再ーバプテスマ, バプテスマが要求する必須的知識, 十字架に付けられたその犯罪者, 模範的バプテスマ儀式)| 問題と解答

10.2 バプテスマの形式

現在世に広く普及されて、施行されているバプテスマのがありますが、その中には特に幼児のひたいにいくつかの水玉を注ぐ幼児洗礼があります。このバプテスマは聖書のものとは全く対照的なものです。

バプテスマはギリシャ語の'Baptizo'を翻訳したもので、それには水玉を注ぐと言う意味が全然ないのです。それには完全に洗うとか、ある液体のなかに浸すと言う意味があります。この言葉がギリシャの古典作品には'舟が水の中に沈んでしまった(baptized into water)'と使用されています。また織物の切れを染色したとも使用されているので、その言葉の'baptizing'は切れものが染色するによって他の色に変えたのを意味しています。いくつかの液体の玉を注いては染色出来ないから、切れものの色が変えたのはその切れものが色の液体に完全に浸されたのを立証するのです。そのように水の中に浸すのが正しいバプテスマの方法です。次の句節を参考して見なさい。

"バプテスト.ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水が沢山あったからである人々がぞくぞくとやって来てバプテスマを受けていた"(ヨハ.3:23)。これはバプテスマの施行に"たくさんの水"が必要であることを示しています。ただ幾つかの水玉を注ぐのならいっぱいのバケツで数百人に施すことが出来たでしょう。ヨハネが一つの水瓶をもって人たちに行き回ったのでなく、彼らがバプテスマを受けるためにヨルダン川の岸のこの地点に来たのでした。

イエスもヨルダン川に行ってヨハネにバプテスマを受けました。"イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられました"(マタ.3:13ー16)。"水から上がられた"、彼のバプテスマの形式は確かに水の中に浸したのでした。イエスがバプテスマを受けた理由の一つは模範を示すためであったから、私たちは彼に習って、水の中に浸すバプテスマを受けるのが当然であります。

ピリピの獄吏とエチオピヤの宦官も、これと同じ形式で、"これに対して、ビリポは、「あなたが真心から信じるなら、受けてさしつかえはありません」といった。すると、彼は「私は、イエス.キリストを神の子と信じます」と答えた。そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、二人とも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。二人が水から上がると、..."(使.8:37-39)。その宦官がオアシスを見た時、"ここに水があります。私がバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか"(使.8:36)と、バプテスマを受けたいと要請したのを記憶しなさい。そのように水のない砂漠を貫いて旅をしていたその宦官は多分少なくとも一瓶くらいの水は持っていたでしょう。もしバプテスマを施行するのが幾つかの水玉を注ぐのなら、そのオアシスまで行くはずがなかったでしょう。

バプテスマは葬られるのであるから(コロ.2:12)、水に完全に覆われる意味が含まれています。

バプテスマを'罪の洗い落し'(使.22:16)と呼んでいます。改宗は'完全な洗い'と同じのです、啓.1:5; テト.3:5; ペテ后. 2:22; ヘブ.10:22。バプテスマに対してこの洗うと言う言葉は水を注ぐと言うよりもっと適切な表現です。

人たちが神に近つくには水で体を洗わなければならないくつかの形式が旧約聖書に指示されています。

祭司たちは彼らが神の奉仕に来る前に'洗盤'で体を完全に洗わなければならなかったのでした(レビ.8:6; 出.40:32)。またイスラエル人たちは彼ら自身汚れたのを清くするために、水で身を洗わなければならなかったのでした(申.23:11)。

イスラエルの神の治癒を求めていたナアマンと呼ばれる異邦人の癩病患者がいました。彼のような人は罪の病気に襲われて、生きていても死者となっているのを現わしているのです。彼の治癒は体をヨルダン川に浸すことでした。彼は神のある劇的行動とか、あるいは広く知られているアバナ川(アッシリアの川)の水に浸すようなことを期待していたので、あまりにも単純なこの治癒法を彼は受け入れことがで出来なかったでした。彼と同じく、私たちも、究極的に救いをもたらすことが出来るこの単純な行動であるそのバプテスマを信じ難いのです。私たちを救うことが出来ることは、イスラエルの望みにつながれるこの単純な小さい行動でないと思い、私たちの業や多く知られている教会に連合するのであることにもっと心が引かれるのです。ナアマンはヨルダン川に体を七度浸しました。それで"彼の肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなりました"(王下.5:9ー14)。

読者は今'バプテスマ'が福音の基本メッセージを認識し、それを受け入れた後、水の中に身を完全に浸す儀式であることが少しも疑いのないことになったと思います。バプテスマに対するこの聖書に基礎した定義は人の身分にかかわらず誰でも福音を信ずる者は実際バプテスマを受けることが出来るのです。福音を認識し、それを信じてバプテスマを受けるならば、聖書的欠点のないバプテスマを受けたと認定するのです。しかし、バプテスマを受ける者は福音の教理を正しく認識していなければならないので、そのバプテスマを受けるまえに、また教理を正しく認識している他の信者の審査を必ず受けなければならないのです。その審査者はを彼を充分審査出来る教理の知識を持っているのが当然であります。

それゆえにChristadelpianたちはバプテスマを受ける者が、水に入る前にバプテスマを受ける資格があるかを確かめるバプテスマ.インタヴィウの討議を持つのです。その討議の問題は各学習の終わりにある学習問題を基本としています。バプテスマを受けたい者があれば、私たちは如何に遠い地方にある人でも必ず訪問して世話してあげるのです。たった一人の人でも、将来この地に設立される神の国と永遠の命に関心を持つ人が現れるのは奇蹟的ことであります。神の国の計算法は量より質であるのがその特徴です。


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